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いざ、鎌倉
〜歴史と文化が描くモザイク画のまちへ〜

歴史

2025/06/27

武家文化の中心地として発展し、江戸時代には信仰と遊山、明治以降は別荘地として脚光を浴びた鎌倉は、各時代の要素がモザイク画のように組み合わさったまちで、日本遺産に認定されている。「いざ、鎌倉」と名付けられたそのストーリーを巡る旅に出かけてみよう。

ライター
取材・文/高田京子 写真/中田浩資
エリア
神奈川県

貴族社会から武家社会へ
社会変革が起きた鎌倉幕府の成立

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鎌倉は12世紀末に源頼朝が幕府を開き、日本で初めて本格的な武家政権が誕生した地だ。南は海、三方を山に囲まれ、“天然の要塞”と呼ばれたこの地は、貴族社会から武家社会への転換という革命的な変化が起きた舞台でもある。
1180(治承4)年、頼朝は武家政権の守護神として「鶴岡八幡宮」(写真)を鎌倉の中心に据え、都市整備を進めた。鶴岡八幡宮参道の若宮大路(写真)は、頼朝が妻・政子の安産を願って造ったもので、中世から変わらず鎌倉の中心軸となる道のひとつ冒頭写真)。

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さらに幕府は鎌倉内外を結ぶための交通路として、山の尾根を垂直に掘り下げた「切通(きりどおし)」を開削。そのうち主なものを「鎌倉七口(ななくち)」と呼ぶが、いまも当時の面影が色濃く残るのが「朝夷奈(あさいな)切通」(写真)だ。切通は鎌倉への出入り口として戦略上重要な意味もあり、周辺には有力者の邸宅があった。切通近くの山裾には大寺院が建てられ、鎌倉のまちの基本構造はこの時代にほぼ確立した。

武家政権発祥の地は やがて信仰と遊山の対象へ

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源氏三代が途絶えた後、北条氏の執権政治で積極的に取り組んだのが宗教政策だ。なかでも修行を重視する禅宗は武士の精神修養の一環として受け入れられ、手厚く保護された。北条氏が創設したとされるのが鎌倉五山だ。五山第1位の「建長寺」(写真)は、第五代執権北条時頼が1253(建長5)年に創建した日本初の禅宗寺院。開山は南宋の禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)で、三門、仏殿、法堂(はっとう)などが一直線に並ぶ中国式の伽藍(がらん)配置に特徴がある。また、建長寺の精進料理が発祥ともいわれる建長汁(けんちんじる)(写真)は現在、門前の「点心庵」で味わうことができる。

鎌倉幕府滅亡後徐々に衰退した鎌倉は、静かな農漁村となった。しかし江戸幕府は、源氏の棟梁・頼朝が造った鎌倉を“武家政権発祥の地”として重視し、鶴岡八幡宮や建長寺などの社寺の復興に尽力した。

江戸時代中期以降、歌舞伎の演目や江の島の景色を描いた浮世絵などで、鎌倉は広く庶民にも知られるようになった。多くの寺社がある名所として信仰と遊山の対象となり、江戸近郊の観光地へと姿を変えていく。やがて明治になると「鎌倉宮」(写真)の創建をきっかけに皇族や華族が鎌倉を訪れるようになり、御用邸や別荘が建てられていった。

明治以降は別荘地として注目 いまなお進化し続ける鎌倉

温暖な気候に恵まれ、美しい海岸をもつ鎌倉は、やがて東京近郊のリゾートとして注目されるようになる。明治時代中期には東海道線、横須賀線が開通し、別荘文化が花開く。鎌倉三大洋館のひとつ「旧華頂宮邸(かちょうのみやてい)」(写真)は、華頂博信侯爵が邸宅として建てたもの。庭園と一体になった洋風家屋は往時の華やかさを彷彿とさせる。

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鎌倉を代表する工芸品・鎌倉彫が広まったのもこのころだ。廃仏毀釈によって仕事が激減した仏師たちは、別荘をもつ上流階級のための調度品を手がけるようになる。そんな歴史を辿れるのが「鎌倉彫資料館」(写真)だ。

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若宮大路のなかほどにある「湯浅物産館」(写真)は、1897(明治30)年に貝細工の製造加工・卸売りの店舗として創業。1階奥の「カフェ久時(ひさき)」(写真)では、色付き模様ガラスや天井の丸太梁などを、当時のままの姿で見ることができる。

中世以来の社寺が点在し、各時代の建築や芸術文化など、多様な要素がモザイク画のように組み合わされた特別なまち、鎌倉。「日本遺産」をきっかけにそのストーリーを旅してみたい。

※本記事は、『J-B Style25夏号』(P4853)を転載しています。

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